NISHIKI-E
The origin of
Multi-color printing

ENGLISH

カラー印刷の源流
名作の数々

錦絵情報
ハガキ
ゲーム
写楽 in VRML
ギャラリー

webmaster@tvz.com

Tokyo Virtual Zone
Copyright 1996
Miura Printing Corporation


明暦の大火
明暦3年(1657)正月18日昼頃、本郷丸山町本妙寺から出火、おりからのはげしい北西風にあおられて、湯島、浅草、八丁堀、佃島、まで広がった。前年の11月から80日あまり雨が降らず乾ききっていたうえに、強風に吹きたてられ、方々に飛び火したのである。
翌19日、未明に一旦鎮火したのもつかの間、昼前に再び小石川伝通院表門下、新鷹匠町の武家屋敷から火の手があがり、北の丸の大名・旗本屋敷をはじめ、江戸城本丸・二の丸・三の丸をも焼いた。4時頃より風はますます激しくなり、中橋・京橋の町屋や四方の橋が焼け落ち、逃げ遅れた人々の累々たる屍は、南北3町、東西2町半のあいだにも及んだという。
さらに同日夕刻、麹町5丁目の町屋から出火、山王権現、西の丸下、愛宕下の大名屋敷に延焼し、増上寺よりさらに南の芝口の海手につきあたり、燃えるものがなくなって、20日の朝鎮火した。
この火事で、本郷から芝口までの60余町が焼け野原になった。橋は江戸中60余個所のうち、浅草橋と一石橋がかろうじて残った。土蔵は9千余あったが、災難を免れたのは十文の一もなかった。死者は10万人を越すといわれ、無縁仏を弔うために建てられたのが、両国の回向院(えこういん)である。なお、本妙寺の施餓鬼で焼いた振り袖が原因となったという因縁話がついて、振り袖火事といわれるようになったのは後の事である。
(参考文献:児玉幸多『日本の歴史16元禄文化』中央公論社、『江戸東京博物館 総合案内』(財)江戸東京歴史財団など)