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源流
江戸の広告文化(2)
錦絵
錦絵の中には、役者絵、芝居絵などあるが、これらは目的のはっきりした「直接広告」であろう。

引札とは、「ちらし」と称される宣伝広告用の摺り物のことである。当時、多くの引札は墨一色のものであったが、この宣伝手法は今日に至るまで生き長らえ、現在ではポスタ−と共にカラ−宣伝印刷物の主流となっている。
引札の起源は宝永・正徳の頃(18世紀初頭)江戸で安売りの広告手段として始まったようである。明和6年(1769)平賀源内が文案(コピ−)を書いたのがきっかけとなり、その後有名人のコピ−が流行した。山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦なども引札を数多く書いている。やがて江戸後期になると錦絵の絵入り引札が出てくる。錦絵を活用した引札として、大阪の薬種問屋が江戸への出店に際し配った「江戸出店乃図」がある。

景物本とは商店の開店祝いとか大売り出しのとき、顧客に配る宣伝パンフレットのことである。

さて、引札は大安売りや開店のお知らせ用のちらしだが、ここに江戸の流通革命を起した事例を見てみたい。
時は天和3年(1683)、元禄文化の栄える直前の頃、呉服商 越後屋八郎右衛門(三井高利が延宝元年<1673>に創業・現 三越)が日本橋駿河町に新店を開業した。当時、越後屋は「店前現銀売り」という新商法が当たり繁盛したが、同業者からの反発も強かった。
天和2年(1682)年末の火災(八百屋お七火事)で本町の店舗が焼失し、駿河町に移転してきた。三井高利はこの機会をとらえ、経営方針を明確に示した引札を配ることとした。
三井高利が創案した「店前現銀売り」「掛値なし」「反物切り売り」は当時の商いの方法と真っ向から対立した。従来の商習慣を破る画期的なことであった。
すなわち、当時、江戸呉服商の最大の顧客は大名、武士と富裕な商人であり、支払いは6月と12月の2回か年一度12月払いの掛け売りが普通であった。
一般的な商法はあらかじめ注文を聞き商品を得意先に持参するか、得意先に商品を持参して売るか、いずれにしても煩雑な手間がかかった。しかも、呉服の値段はその場その場の交渉で決められていた。

高利が江戸市中に配った引札には次の様な事が書かれていた。

<越後屋引札> 注:現代語訳したもの。
『駿河町の越後屋八郎右衛門からお知らせいたします。
このたび、わたくしはひと工夫して、呉服物は何によらず、格別お安く売り出させていただきますので、どうかわたしの店にお出向きになり、お買い上げいただきたいと存じます。
しかし、どなた様のお宅にも品物を持参しての訪問販売はいたしません。
もっとも、私どもが正札販売で売り出しました以上は一銭といえども嘘の値は申し上げません。従って、たとえお客様がお値切りになりましても、一切値引きするようなことはいたしません。
もちろん、代金は即座にお支払いいただきたく存じます。一銭といえども掛売りはいたしません。 以上

呉服物現金安売り掛値なし
駿河町二丁目 越後屋八郎右衛門 』

この作戦は大成功となり、江戸の人々から拍手が送られた。駿河町越後屋の繁盛ぶりについて、井原西鶴は「日本永代蔵」の中で大商人の手本と絶賛している。その後、越後屋は永く日本一に君臨したのである。改めて、引札(マスメディア)の効力がうかがい知れる。