ジャコモ・プッチーニ
(1858〜1924、イタリア)


  1858年代々ルッカの大聖堂オルガニストというプッチーニ家に生まれる。 ジャコモは一家の5代目で、14歳にして教会のオルガニストとなり、宗教音楽家としての道を歩もうとしていた。ところが18歳の時にピサで『アイーダ』を観たことによって、彼の人生は変ってしまった。ミラノ音楽院に入り、オペラ作曲家を決意する。「交響的綺想曲」を25歳で発表し、音楽院を卒業。それをきっかけに彼は注目をあびることになる。音楽出版社ソンツォーニョ主催の一幕物オペラにプッチーニは「妖精ヴィッリ」の台本に曲を作り応募する。それには入賞できなかったものの、審査員の一人であったボーイトの目に留まり、1884年に初演され大成功となる。


 その後、マスネ「マノン」の成功の影響から、同じ題材をオペラにした『マノン・レスコー』(1893)、『ラ・ボエーム』(1896)、『トスカ』(1900)と次々に傑作をつくっていった。その次に作曲をした『蝶々夫人』のスカラ座での初演は大失敗に終わったが、一日で上演を打ち切り、その3ヵ月後、多くの部分を書き換えたものを再演し、大好評を得た。しばらく、裁判事で身内で苦労があったが、ようやくアメリカを題材にした『西部の娘』を作曲し、1910年ニューヨークのメトロポリタン歌劇場にて大成功をおさめる。その他、新しい試みとして『外套』、『ジャニ・スキッキ』、『修道女アンジェリーカ』を三部作として同時に初演した。


  最後の作品となった中国を舞台にした『トゥーランドット』は「リューの死」まで作曲していたが、喉頭癌で65歳の生涯を閉じた。遺作となった『トゥーランドット』はプッチーニのスケッチをもとにアルファーノのてによって最後の二重唱が作曲され、1926年トスカニーニによって初演された。


◆主な作品◆

妖精ヴィッリ(1884)
エドガール(1889)
マノン・レスコー(1893)
ラ・ボエーム(1896)
トスカ(1900)
蝶々夫人(1904)
西部の娘(1910)
ラ・ロンディネ(つばめ)(1917)
外套(1918)
ジャンニ・スキッキ(1918)
修道女アンジェリーカ(1918)
トゥーランドット(1926)


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