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源流
錦絵の創始
源流
明和2年(1765)から翌年にかけて、「大」「小」絵暦の大ブ−ムとなる。
当時は太陰太陽暦が採用されており、その年の大の月(30日)と小の月(29日)の組み合わせが年々異なり、三年に一度位閏月があったため、暦は貴重な生活情報であった。はじめは簡単な文字情報だけであったが、年々趣向をこらし、ついには判じ絵による絵暦まで出てくるようになった。
江戸の好事家たちで俳諧を趣味としていた人々が集まり、「連」=グル−プを作っていたが、彼等も絵暦制作には熱心で、「大小会(だいしょうえ)」と称し、自作の優劣を競っていた。1,600石の旗本、大久保忠舒(巨川)も「連」の主宰者の一人で、彼は絵暦制作に専門の浮世絵師を起用した。忠舒(巨川)が選んだ町絵師が鈴木春信である。

鈴木春信(享保10年<1725>〜明和7年<1770>)は、神田白壁町や両国米沢町に住んでいた町絵師である。宝暦6年<1756>頃、版下役者絵を描いていたが、その後、美人画を専業にするようになった。
そのころ、巨川から依頼を受けた春信は、同一町内に住んでいた、平賀源内等の示唆を受けながら、紅摺絵の手法を改良工夫した多色摺版画の方法を求めていた。彫師、摺師達と熱心に研究を重ね、幾多の試行錯誤を繰り返しながら、究極の絵暦を作ることに没頭していた。

そして、明和2年(1765)遂に完成したのである。十色でも刷り重ねられる華麗な多色摺版画が出来上がった。厚手で上質な奉書紙を用い、濃淡を利用して豊富な中間調も可能となり、今までにないカラ−作品が仕上がった。
はじめは絵暦だけであったが、その見事な出来栄えに版元が目をつけ商品化を図ることとなった。多色摺版画が絢爛豪華な西陣の錦織物を連想させるとして「吾妻錦絵」と名づけられた。吾妻は東であり、京に対抗したものだろう。
明和3年(1766)春信は錦絵8枚揃い「座鋪八景」を出し、一世を風靡する。
あたかも、着色白黒版から一挙に総天然色へ変化したような感じで、江戸町人は度肝を抜かれたに相違ない。春信は夢幻的な表情をもつ女性美を錦絵に表わし大変な人気を得たが、明和7年(1770)病を得て急逝する。

現在では、一般に浮世絵というと浮世絵版画のことを指していて、錦絵とあえて言わなくても浮世絵イコ−ル錦絵と理解されている。
明和2年(1765)に創始された錦絵は日本独特の見事な多色印刷物であった。大量に安く複製して売られた錦絵こそ世界に先駆けて始まったカラ−印刷である。