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源流
江戸の広告文化(1)
錦絵
江戸は天明・寛政から文化・文政の頃(18世紀末から19世紀初頭)、すなわち錦絵黄金期の時代100万人規模の大都市であった。当時、ロンドンが90万人、パリが60万人と言われているから世界一だったに違いない。
将軍のお膝元で武家の人口が約半分を占め、それぞれの大名は江戸城を中心に広大な屋敷を構え、さらに、寺社も広く土地を有していた。江戸町民は全体の2割以下の面積に50万人が住んでいた。そのため多くの人々は長屋暮らしであったという。しかし、そうした壁一枚の向こう三軒両隣りの生活の中で、お互い生きる智恵を出し、工夫をし合う土壌が生まれたのであろう。
鈴木春信が創始者といわれる錦絵も、一人の天才の発明ではなく木版画職人の彫師や摺師の創意工夫と技量にまつところが大であったと思われる。見事な共同作業である。春信の初期の作品に彫師:関根何某、摺師:湯本何某などと刻まれているのは協力者に対する謝意を表わしているのだろう。
江戸の広告や出版活動を調べて行くと、当時の人々の識字率の高さに驚かされる。専門家の推計によると、江戸での就学率(寺小屋などへ通った比率)は七割を超えていたという。ちなみに、19世紀中頃のイギリスで約二割、フランスなどでは一割に満たなかったとされているので江戸の水準はかなり高かったといえる。江戸時代には正式な学校組織はなく、私塾がその役割を果たしていた。「寺小屋」とか「手習い」という文字を習う為の塾がいたるところにあり、子供達が5〜6歳の頃から熱心に通ったという。浮世絵の題材にも自由闊達な寺小屋の学習風景が良く取り上げられている。さらに錦絵にも手紙を書いたり、読んだりしている情景があちこちに登場する。
江戸町人は「文字」に関心が高かったのである。こうした環境のもとで印刷技術(木版技法)がますます洗練されていったのもうなずける所である。
江戸は元和元年(1615)の大阪夏の陣以来、250年間の永きにわたって戦(いくさ)がなかった。徳川将軍家による平時の長期政権が幕末まで続いた。
まさに「憂き世」から「浮き世」へ変貌したのである。これらのことが錦絵をはじめ独特の江戸文化形成の背景となっていた。

(1) 江戸の広告文化
広告は現代では世の中に欠かせない情報源である。チラシ、ポスタ−、カタログ等の印刷物をはじめ、ラジオ、テレビ媒体そしてインタ−ネットへと広く、深く拡大している。勿論、ネオン、看板ほかの屋外広告など際限なく広告は存在する。
江戸時代の宣伝広告を見てみると、面白いことに気がつく。暖簾、看板の類、それに引札、景物本などは広告らしい広告であるから「直接広告」とするとする。もうひとつ、錦絵の中で画題として取り上げられた商店や名物を売る店などは、表向き名所図会であるが、考えてみるとこれも立派な広告である。金銭の取り引きがあったかどうか定かではないが「間接広告」といえるのではないだろうか。

駿河町越後屋図(奥村正信 享保年間 18世紀中頃)
駿河町越後屋正月風景(鳥居清長 天明の頃 18世紀末)
駿河町越後屋前(鳥居清長)
呉服行商図(勝川春章)
名取酒六家選(喜多川歌麿 寛政7年(1795)頃)
 大もんじゃ内浅じふ 木綿屋七つ梅
 玉屋内しつか 満願寺養命酒
 若那屋内白露 木綿屋乃男山
 兵庫屋華妻 坂上乃剣菱
 角玉屋内小むらさき 山城屋の山やま
 越前屋内通路 紙屋のきく
布袋屋店先図(歌川豊国 寛政12年(1800))
夏衣装当世美人(喜多川歌麿 文化年間 19世紀初頭)
 越後屋仕入のちじみ向き
 大丸仕入の中形向き
 亀屋仕入の大形向き
 白木屋仕入の乗布向き
 嶋屋仕入の染くま向き
 荒木仕入の織嶋向き
 舛屋仕入のかゞ紋向き
 伊豆蔵仕入のもやう向き
五節句之内 睦月(一勇斎国芳 文化年間 19世紀初頭)
東京駿河町三ツ井正写之図(歌川芳虎)
富嶽三十六景 東海道矢田・不二見茶屋(葛飾北斎 天保3年(1832))
東都名所 駿河町之図(歌川広重)
東都江戸駿河町図(歌川広重)
「名所江戸百景」より(歌川広重 安政5年(1858))
 大てんま町木綿店(大伝馬町) たばた屋
 する賀てふ(駿河町) 越後屋
 大伝馬町ごふく店 大丸屋
 日本橋通一丁目略図 白木屋
 上野山した 伊勢屋
 下谷広小路 松坂屋
東風佳 福つくし 呉服(楊洲周延 明治初期)
駿河町 雪(小林清親 明治12年(1879))