≪前期出版文化≫
寛永年間(1624〜1643)京都で営利を目的とした出版が始まった。仏書、 需書、史書など硬派ものが主であったが、一方、庶民を対象にした平易な絵入りの仮名草子も扱っていた。やがて、この動きが大坂へ移り、元禄年間(1688〜1703)大坂に出版文化の花が開く。当時、商人の習慣であった別家・暖簾分け制度が版元にも取り入れられ、秋田屋グル−プと河内屋グル−プが大坂の版元二大勢力であった。丁度その頃、前述したように江戸では菱川師宣によって、一枚摺りの浮世絵が創案され、次いで、彩色した丹絵も工夫され、紅絵、紅摺絵へとつながっていく。「整版」技術の躍進期である。
犬公方で名高い5代将軍綱吉の元禄期、出版界には三人の巨匠が登場した。
井原西鶴、近松門左衛門、そして松尾芭蕉である。
≪中期出版文化≫
元禄期までの出版活動の中心は上方(京都・大坂)であったが、享保の頃(1716〜)から江戸へ移ってきて、以降江戸の出版が大躍進する。江戸地本と呼ばれる草双紙の類が大変な人気を博し、大手の地本問屋(黄表紙、洒落本、合巻、錦絵などを扱う版元)は盛況を極めた。これは、伝統的な京文化に対する新興の江戸文化の挑戦でもあった。明和2年(1765)春信により錦絵が誕生すると、またたくまに浮世絵界を席巻し、半世紀を得ずして、その黄金期を迎える。
明和8年(1771)頃には、「江戸っ子」という言葉も登場して、江戸生え抜きの文化が勃興してきたのである。
ところで、隆盛をきわめる出版に対して、幕府の弾圧も始まってきた。八代将軍吉宗が手がけた享保の改革がその嚆矢となる。時の南町奉行大岡越前守忠相から享保7年(1722)に示されたお触れ書は次の通りである。
――お触れ書―― 注:現代語訳
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