![]() 写真と文:上野信好 |
一方、古関の方は県境の新関から7〜8キロ白河市街地寄りの旗宿(ハタジュク)にあります。 その古関には住吉・玉津島の両明神を一緒に祀ってあり、大相撲二所の関部屋の由来もここにあります。古関の参道に入ると、うっそうたる古木が立ち並び古城趾にふさわしい土塁や堀の跡が残っています。白河の関はその昔蝦夷(エゾ)に対する防衛拠点として置かれた関所で、勿夾(ナコソ)、念珠(ネヅ)とともに三関の一つと稱されるほどの要衝で堅固な関所の構えをしています。これまで紹介してきた室の八嶋神社、黒羽雲厳寺とともに皆さんもぜひ尋ねて欲しい場所のひとつです。 さて、この白河の章では紀行文の全文を掲げましたが、それはいよいよ陸奥に踏み入った芭蕉の胸中が文章に表現されている点を是非理解して欲しかったためであります。白河で古(イニシエ)の歌人らが詠んだ五首をとりあげ紀行文の中に見事に配列し、曾良の白河越えの句もまた二人の旅姿と心情を軽ろやかに示すなど心にくいばかりの表現の妙をこらしています。 その五首の和歌はテキスト脚注欄(21ページ)にある「いかで都へ」、「秋風」、「紅葉」、「卯の花」、「雪」であり、いづれも名高い傑作を引用しています。曾良の「卯の花を」の句意は「昔の人は衣装を改めてこの関を通ったというが、乞食行脚姿(コツジキアンギヤ)の自分達はせめて路傍の卯の花を髪に挿し、晴着代りにしてこの関を越えるとしよう」というほどの意味です。 (須賀川)白河をあとにした二人は、矢吹を経て須賀川には二十二日から二十九日まで滞在しました。 須賀川には駅長(宿場の亭長)をつとめる相楽等躬(サガラトウキュウ)や僧可伸(カシン)などの接待を受け三十六句形の歌仙二巻を興業しています。 大地主の等躬は和歌に精通した教養人であり、可伸は俳号を栗斉(リツサイ)と名乗る隠士(インシ)でともに俳諧興業には格好のパートナーだったわけです。 | |
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