BASHO
写真と文:上野信好

仕官の道を閉ざされた芭蕉は、延宝2年(1674)31才の頃江戸に下り日本橋小田原町に借家住いとなり、33才頃には松尾桃青の俳号で発句を出し注目されるようになります。この33〜34才頃の芭蕉はすでに俳諧宗匠として立机していま すが、郷里から親戚、縁者を江戸に呼び寄せるなどしたため家計は苦しいやりくりの様子がうかがわれます。そのため延宝8年(1680)37才の冬までの4年間、現在の文京区関口の神田川で上水工事の水役などに従事していたことがありました。


BASHO 義中寺の芭蕉の墓


延宝8年冬芭蕉はそれまで住んでいた日本橋を離れ、華やかな俳諧宗匠の地位も捨てて隅田川を渡った新開地深川に移り住みます。それは新しい俳風を求めた芭蕉の再出発を意味し、以後51才の没年までの間に、「わび」「さび」「かるみ」などに代表される蕉風俳諧が開花・確立されることになります。元禄7年(1694)5月11日51才の芭蕉は郷里伊賀上野を目指して最後の旅に発ちます。いったん郷里に立寄ったのち大津、京都などを巡り、大阪の旅先で病にかかり10月12日、51才で生涯を閉じることになります。芭蕉の亡骸は遺言により琵琶湖畔・膳所義仲寺の木曽義仲の墓のそばに葬られました。


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