BASHO
写真と文:上野信好


 「おくのほそ道」の旅を終えて5年後の元禄7年5月11日、芭蕉は当時随一の能書家素龍(ソリュウ)に清書させた「おくのほそ道」を携えて、郷里伊賀上野をめざして旅立ちます。この年は閏(ウルウ)5月があり、6月4日京都落柿舎に滞在していた芭蕉のもとに江戸の内妻寿貞の死の知らせが届きました。芭蕉は踵(キビス)を返して再び郷里に向い、7月15日の盆会(ボンエ)に実家で寿貞のために発句を手向け、薄幸な寿貞をねんごろに回向(エコウ)しています。

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句意は「いつも自分はものの数ではないと卑下していたおまえのために、今日は先祖の霊といっしょに回向しているのだからもう卑下などすることなく成佛しておくれ」という芭蕉の鎮魂歌でありました。そののち再び近江・京を尋ね、病を得て大阪の旅先で客死したのでした。私淑した先達と同じように旅で生涯を閉じたことは芭蕉にとって本望だったに違いありません。

(曾良の旅)
「おくのほそ道」の旅で師芭蕉と行をともにした曾良について少し説明を添えることにします。曾良の本名は高野与左衛門といい、信濃国上諏訪に生まれましたが幼少の頃から家族との縁がうすく、成人してから伊勢長島藩に仕官しますがやがて致仕し江戸へ出て、当時随一の神学者吉川惟足(キッカワコレタル)に師事して神学を修めます。曾良は芭蕉より5歳若く、貞享3年(1686年)3月、38歳の頃芭蕉庵の近くに起居して、俳諧を学ぶだけでなく師の身辺の世話をするなど芭蕉に最も近い位置にいた人物でありました。曽良は「おくのほそ道」の旅の2年前の貞享4年8月、芭蕉の「鹿島詣」の旅でも黄檗宗(オーバクシュウ)の僧侶宗波とともに師に同行するなど、和歌や神学等で培った学識は旅をゆく芭蕉には格好の話相手だったように思われます。


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