BASHO
写真と文:上野信好


BASHO 日光東照宮入口付近の句碑

「あらたおと青葉若葉の日光」


(日光)3月30日(現在の歴では5月19日)は鹿沼、今井を通って現在の日光市上鉢石町に宿をとっています。宿の主人通稱佛五左衛門(高野氏)は、よろづ正直を旨とする観音の化身かと思われるほどの人柄で、乞食(コツジキ)同然の芭蕉と曾良を快よく迎え入れます。
 芭蕉は紀行文でこの正直で清らかな資質を備えた五左衛門を補陀落浄土である日光にふさわしい人物として描いている点を見落してはならないでしょう。
 前段室の八嶋の条で芭蕉は神学に造詣の深い同行曾良を紹介していますが、この章では頭を剃って黒染の衣をまとい旅僧に姿を変えた曾良が、名前まで惣五郎から宗悟と改めるなど決意のほどを力強い表現で語っています。曾良は芭蕉の同行者として、専ら師の身のまわりや食事の世話など介護役をつとめる立場ながら僧形に変身していることを強調するのは、佛五左衛門の振舞いとある種共通したものを読みとることができるでしょう。


BASHO 日光安良沢大日堂跡の句碑
「あらたおと 青葉若葉の日の光」

BASHO日光含満ヶ渕(ガンマンガフチ)の百体地蔵尊、川は「大谷川」

「あらたふと・・・」の句の初案と改案の比較
日光の神域の荘厳さを表現したこの句で芭蕉は初案の「木の下闇」を「重み」ととらえたようです。そこで自然体で素直に情景を描写した「青葉若葉」に改作しました。これが芭蕉が求めた窮極の詩作の姿「軽み」というわけです。

その那須野越えでは馬のうしろから子供が二人ついてきます。ひとりの小娘は名を「かさね」と言い、聞き慣れないゆかしい名前と愛らしい姿の彼女を撫子にたとえた曾良は

「かさねとは 八重撫子の 名なるべし」

の句が浮かびました。「おくのほそ道」5ヶ月余の長旅の中で色香をにほわせる場面は仲々見出せませんが、わづかにこの句と新潟・富山の県境市振の宿で、越後の遊女父娘と部屋を隣り合せで夜を明したという条の二ヶ所にそこはかとなく異性の存在を伝えています。しかし曾良の旅日記からは二人が市振を尋ねた形跡はなく、それは創作であったというわけです。


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